大事にするということは忘れること
院長コラム東京編
久しぶりに冷蔵庫を片付けた。古くなったものをどんどんすてるのである。食べ残しをとっておいたものもあるが、大半は大事に大事にとっておいたものが多いのである。食べてしまうのは勿体無いから、とっておこうということで、とっておいたら、忘れてしまったと言うことである。折角とっておいたのに—-。最も長いもので、10年ぐらい前にプーケットへ旅行に行った際に買った海燕の巣が冷蔵庫の奥の方から出てきた。パッケージを見て、気がついたが、中も見ずにゴミ箱へ捨ててしまった。
ものを捨てる時には、過去の思い出に耽りながら、と言うわけではないらしい。食料品以外にも大事にしまってあるものがあると思うが、大事なものは日常生活で使ったほうが、良さそうである。
庭をネコが二匹駆け抜ける
一昨日、愛犬アーサーが死んだ。家の主がいなくなったのである。その思いに耽っていたら、今朝黒猫が一匹また一匹、庭を横切って行ったのである。あっという間の出来事で夢かとも思ったが、確かに黒猫である。主のいなくなった庭を何事もないかのように通過したのである。アーサーがいた時考えられなかったが、いなくなると、どうしてわかるのか、この事態である。そういえば、アーサーはあちこちでおしっこをつけて、自分のテリトリーを示したものであった。動物は自分のテリトリーを作り、その範囲で安心して生活するようであるが、その存在が消滅した瞬間、そのテリトリーは別の生き物にシフトするのである。これが自然と言うものであろうか? eat and be eaten と言う詩がある。生きるために物を食べる。そして死んだら食べられることで自然に帰る。永遠と言うものはない。記憶が永遠であるだけである。
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